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耕すことの四方山話

01 プラスチック撥土板プラウ

私の卒業論文は、トラクタ用プラウの基礎研究でした。
畜力耕と異なり、トラクタは高速作業ですから、それに適合した曲面であるべきと考え、撥土角の違いによる反転性能を調べました。当時は、ディーラの力関係からマッセイファーガソンのプラウが多く使われていましたが、土壌付着が多いことがこのプラウの難点でした。そんな中、インター製ファームオールカブトラクタ付属のプラウが、反転・鋤込み共に良好なだけでなく、土壌付着も少ないことから注目されたので、早速スケッチして同じ形態のものを製作しました。ところが、長い間の馬耕で形成された耕盤(硬盤)を破りながらの深耕という状況では、土壌付着以前の問題もあり、満足できるものではありませんでした。

現況を踏まえ、日本の土質や土性に合わせたプラウを製作するには、さらに勉強が必要だと考え 山田トンボ に入社し、プラウ作りを基本から学ぶことにしました。三年間鍛冶屋生活をして、一通りの技術は身に付けたと自負していました。しかし、もっと広い世界を見て見ようと北農機に転職しました。
北農機は、第二次大戦中の資材不足による政府の指令で、複数のメーカーが統合して出来た会社です。戦後に幾つかの参加メーカーは、元に戻り独立しましたが、折角の会社を潰すこともないということで、農協、ホクレン、全農の出資で再整備されました。入社時の本社は、札幌市北条東七丁目にあり、工場は帯広市と岡山県。酪農・畜産・畑作など農業機械の殆どを製造しており、社員数230人という北海道一の製造メーカーでした。プラウに関しても、心土耕プラウ、混層耕プラウ、マンモスプラウなど、さまざまな耕土改善用プラウを製造していましたが、これは札幌本社工場の仕事で、私が在籍していた帯広工場では、直接プラウ製作に関与することはありませんでした。ただし、当時は実演研究会が各地で開催されており、その要員として狩り出されました。リハーサルをしっかりと行い、実演会で最高の見せ場を作ることは割合と上手で、得意になっていたものです。
在職中は、インドに1年、インドネシアに一年半派遣されました。インドはJICAがOTCAと言っていた時代で、畜力機械の技術指導員として、インドネシアは、政府から雇用されてジャングル開発担当です。会社では、小松のブルドーザ用に色々な作業機を開発製造していましたので、そのサービスという意味合いもありました。このように 北農機 在職中には数多くの有意義な経験をすることができました。
しかし、親方日の丸的な性格が災いし、採算性が悪化、昭和42年に解散となりました。経営母体のホクレンなどは、体力がある内に解散した方が有利とは考えたのだと思います。世間では倒産と言われていますが、退職金も割増しで貰っていますので、倒産会社と言われると、些か反発を覚えます。

昭和42年に 北農機 が解散し、インドネシアで関わった小松なども面白しろそうだと次の就職先を思案していた時に、中央農試の科長職を打診されました。当初は、公務員向きではないのでと断りましたが、北大の常松教授に怒鳴られて試験場に入る羽目になりました。教授は、帯広畜産大学の農業機械の兼任教授であったため断れませんでした。
北農機製品のアフターケアをするために道東では 東洋農機(山田トンボ、太田農機、山畑農機)が創設され、全農が 北農機 に出資していた関係から、札幌には内地からタカキタがやってきました。タカキタは和犂のメーカで、その頃はトラクタ用のボトムプラウも作っていました。
弱体化した 小西農機 が、スター農機 に合併した頃でもあり、事業用プラウのアフターケアだけでなく、酪農関係の機械もありましたから、タカキタ が最適と考えたのでしょう。タカキタは二代目社長の時代ですが、タカキタが持ち込んだプラウに我々に大きなショックを受けました。カバーボードが初めて紹介されたのです。

北海道のメーカや研究機関は意外と保守的で、反転・鋤込みはボトムの曲面改良で行われるべきで、許されるのは、鋤込みを良くするジョインタまでという考えでしたが、トラクタが大型化し、高速作業が当たり前になると、土の動きが大きくなるので曲面の改良だけでは困難になりつつありました。さらに年々進む深耕に対応するのに、ボトムを大型するだけでは、それに比例してけん引抵抗も大きくなるばかりでした。そこで野暮ったくないスマートな形態を模索している時期でした。
技術系譜という枠に囚われること無く、新たに発生する事象には、「カバーボード」という新しい発想で対処するタカキタの考え方と実践は、ボトムプラウの近代化に大きく貢献したと言えます。

さらに、タカキタはボトムへの土壌付着を防止するためのプラスチック撥土板(ボルカニックス)も開発していたのです。北海道のメーカーも土壌付着防止に懸命に取り組み、ほぼ完成の域に達していましたが、特許を申請して権利を取得するには至っていませんでした。タカキタは、すでに特許も取得していました。北海道勢は早速「プラウ会」を結成し、同じような苦労をしていたのだから、この苦労を理解して欲しいと申し入れました。しかし、タカキタも、相当に苦労し、出資もしていたので、北海道勢の苦労は理解しても、ロイヤリティーは要りませんので自由にお使い下さいとはならないのが当然です。ボトムプラウ無しには農業が成立しない地域の北海道勢としては、プラウを殆ど使っていない地域の発明を賞賛しても、そのまま受け入れるには、やはり抵抗がありました。
紆余曲折ありましたが、最終的には裁判所の裁定に委ねることとなりました。
裁定では、北海道勢は苦労してほぼ完成の域に達していたこと、官民上げてのプロジェクトで、内容が充実していたことなどが考慮され、北海道勢もプラスチック撥土板プラウを作ることができるようになりました。スガノ農機の二代目社長、菅野良孝の努力によるものです。

最初のプラウは木製でしたが、耐久性を向上させるために角や骨が用いられ、青銅を経て鉄の鋳物時代を迎えます。現在の基礎となるボトムに鋸板を張り付ける技術は、150年程前にアメリカで開発され、それにより耐久性が増し、土壌付着も減少しました。スチールプラウの登場です。耕起技術が発達すると共に土地の生産性も高まりました。鋼鉄・熱処理の時代を経て、次は我が国で発明されたプラスチック撥土板の時代となりました。
日本で発明されたプラスチック撥土板は、世界の耕起技術を格段に進歩させたと言えます。ヨーロッパでもプラスチック撥土板使うようになっています。
時代が移り、世情が変われば、技術もそれに付随して進歩しなければならないのです。新しい技術が常に生み出されるからこそ、人は楽しく生きることができると考えてよいでしょう。

 

01-01 格子型撥土板プラウ
土壌付着を少なくするために試行錯誤を繰り返し、格子型プラウを製作した。土壌付着は少なくなったが、満足できなかった。製作工数が多くなる難点もあった。

 

01-02 開発当初のプラスチック撥土板プラウ
塗料の中に土壌付着防止に役立つものがあることに気付き、樹脂板(スリック)を使えば、完全に土壌付着を防止出来る事が分かった。昭和38年(1963)の頃である。

 

01-03 改良型プラスチック撥土板プラウ
当時、樹脂板は高価で、摩耗もしやすかった。耐摩耗性の樹脂板の検討、曲面の改良などに取り組んだ。近年、ヨーロッパでもプラスチックが多くなっている。我が国が先導したものである。

 

01-04 タカキタ製プラスチック撥土板プラウ
昭和42年(1967)にタカキタが北海道に持ち込んできた。ボルカニックスプラウと呼ばれて完成度が高かった。ただし、反転・鋤込み性に劣っていた。

 

01-05 ボルカニックスプラウの作業状況
土壌付着は全く認められず、その性能に驚かされた。試験期間は性能試験を開始して、その内容を明らかにした。

 

01-06 格子型リバーシプルプラウ
格子型リバーシブルプラウは消滅してしまった訳ではない。土壌付着の少ない地域には健在である。ドイツなどでは請負い用に使われている。