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耕すことの四方山話

29 三代目社長 菅野祥孝

新しく事業を興す創業者の人柄は、殆どの場合攻撃型で物事の決断に対して躊躇しません。勉強家で仕事の能力に長けているのは勿論のこと、自分は何を為すべきかを考え計画的に行動します。

我が国は日清戦争、日露戦争を通じ力をつけて国際的にも認められるようになりました。第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの食糧不足を補うべく豆類や馬鈴薯澱粉などを輸出することで北海道の多くの農家が経済的に潤い、洋式農業が本格的に展開する時代となりました。創業者豊治はこの時勢に乗じ大正6年に独立します。

24歳の若さでの創業ですが、真面目さと積極的な仕事への取り組みが信頼となり工場は繁盛します。北海道のプラウ審査会では常に上位に入選し、奨励農機具に指定されていました。いろんな土壌を収集し、土質に合うプラウを製作する努力が報いられたものです。

創業者の人柄が攻撃的であるのに対して、二代目は守備型と言われます。事業に成功し、規模が拡大すれば、攻撃だけでは城を守れなくなり、経営内容を充実させて万全を期すというのが常法です。守備型は攻撃型の反動で必然的に生まれ出るとの説もありますが、経営的に考えれば攻撃型に守備型が加わるのは当然な流れだとも思われます。

二代目の良孝は、創業者に比較すれば、やはり守備型に近いと言えるでしょう。第二次大戦を引き起こしたのは明治族ですが、実際に戦って血をながしているのは大正族です。大正族は半分以上が戦死しています。第二次大戦後に生きて帰ってきた人達は、自分はたまたま生かされた、日本を滅亡させたのは自分達で復興させるのも自分達である、しっかりしなければ死んだ戦友に申し訳ないと考えています。

第二次大戦に出兵した良孝社長が、ソ連抑留後に生還した頃から、畜力からトラクタへ大きな転換期を迎えようとしていました。トラクタは家一軒新築できる程高価なものでしたが、これに乗り遅れる訳にはいきません。作業機に関しては、ヨーロッパを始めとする海外とは土壌も栽培様式も異なるので、それらを参考にしながら独自のものを開発する必要に迫られていました。このような背景では、仮に守備型を要望されても、のんびりできる環境にはありません。よって、かなり攻撃型な面も持ち合わせていたのだろうと感じます。

良孝は、弾丸の下を潜り抜けている経験からか度胸も良く、清濁併せ呑む度量の大きさもありました。識見に富み、新機種の開発に敢然と取り組み、サブソイラ・プラスチック撥土板プラウ・ビートタッパー・ビートハーベスタの開発など、素晴らしい技術を世に出しています。スガノ農機の近代化の基礎は、良孝によって築かれたといえます。

良孝とお酒を呑むのは楽しみでした。気配りがあって、美味しく頂けるのです。色々な話が聞けるのも有意義でした。十勝岳が爆発し避難命令が出た時に、良孝社長は火山灰の降る中を車で創業者の豊治が支援していた凌雲閣に行き、皆を上富良野に救出したそうです。怖くなかったかと聞いたら「自分なりに判断して大丈夫と思ったからやってみた、運を天に任せた。」と平然としていました。凄い気構えで頼もしいと感じたものです。

私ども昭和一桁族は、戦争の経験はありますが、昭和元年、2年生まれの人が極僅かに戦死しているだけです。戦後の昭和一桁族は、只管に大正族に仕え、我が国の復興に協力してきました。祥孝も同様です。

祥孝は三代目です。一般的には三代目は創業者の薫陶を受けていますから、どちらかと言えば攻撃型になります。隔世遺伝と言われたりしますが、一方では守備型二代目の反動もあるとされています。しかし、攻撃型と守備型のやり方を見て、賢明であれば双方を身に付けて経営基盤を安定させます。これが、三代続けば家は安泰と言われる所以です。

祥孝は三代目といっても創業者の孫ではありません。しかし、兄の良孝とは年が離れているので、殆どそのようなものでしょう。良孝と約20年一緒でしたから、そう言っても無理はないと思われます。

祥孝は攻撃型か守備型かを考えると、常務時代の仕事から察するに典型的な攻撃型であったと思います。良孝は、その時代から攻撃的な対処が必要な場面も多かったのですが、どちらかと言えば守備型的であり、祥孝とは対比の関係にありました。祥孝は新しい時代の営業を一手に引き受けていましたから攻撃型でなければ、やり終うせなかったとも言えるでしょう。

常務から社長になると、攻撃型の面を上手に衣に隠し実質的な攻撃型は常務の中山に任せていました。二人の攻撃型では、経営に破綻を来すと考え、バランスを取ったのだと思います。この辺りは実に賢明でした。中山の能力を引き出し、驚くような新製品を世に送り出しました。

開発や製造の関係者には比較的穏健な態度で接触していたようですが、良孝のような物作りの器用さは持ち合わせておらず、この面ではコンプレックスがあったのかもしれません。

自分に不向きな面は人に任すのがよいと割り切っていたように思われます。

これに対し営業に厳しかったのは、営業畑が長かっただけに歯痒さを感じたためでしょう。どうしてもっと積極さを持たないか、工夫が少ないと嘆いていたことがあります。営業はそれなりに懸命に働いているのであり、長い目で見てもよいのではないかと話しても、あまり納得することはありませんでした。しかし、晩年はかなり柔和になりましたから、年の功で割り切ってきたのかもしれません。