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耕すことの四方山話

30 三代目の生き様

同年生まれということもあり、折に触れて祥孝社長から電話や手紙をもらいました(頼りになるかどうかは別にして…)。時には逆なことを言って反応を窺ったりします。これと言う人に真面目に参考意見を求め、考えられる色々なことを話題にしながら人の意見を聞き、自分の考えを少しずつ纏めていたのでしょう。

穐吉さん(当時 スガノ農機 専務)も良き相談相手だったと思います。特に参考になる意見がなくとも、話の反応をみながら考え方の妥当性を密かに探っていたようです。その上で最終決断は創業者と墓前での会談です。

満州から帰国し工場を再開するに当たり、14歳から創業者と一緒に鍛冶屋仕事をしています。創業者を尊敬しているのは勿論のこと、相性も良く話は通じやすいのです。

土の館の土地を買い求めたのは、創業者のお墓の近隣であったからで、常に創業者の見えるところで仕事をしたいからだと言っていました。

建設に際しては、町の協力により農場となる場所に新たな土を入れて整地しました。農場の左手は、地形的に傾斜となっており実演が見えやすいので整備は不要でしたが、墓地が見える右手については、一般の人が違和感を感じそうなので少し工夫が必要となりました。

私は木を植えて緑で囲うようにすれば景観上も見映えがして、農場が利用しやすくなると提案しました。これについては、穐吉さんも賛成で、隣地の松の木を好意で貰い受け植林しました。

ところが、木が育つに従って、段々とお墓が見えなくなり、「創業者のお墓が見えなくなり残念です。」と祥孝社長は洩らしましたが、仏様は透かしても見えるので我慢してくださいと慰め、何とか納得してくれたものです。創業者と相談して最後は決断する。大きな事業の形を整えることができたのは、こうした慎重さがあったからだと言えます。

北海道のプラウを日本のプラウにするために工場を茨城に移転するとの決断も「叩けよ、されば開かれん」、絶えず何かを求めていく攻撃型だからできたことで、創業者精神が生きています。全国の土地の生産性向上に敢然と取組む意志を固めます。

北海道の人は意外と外に出ようとしませんが、祥孝社長の意気込みや良しです。

祥孝社長はサツさん(祥孝社長の母)に内地へ出ることを報告すると、「私たちも満州に出て、国際的な仕事をした。」と嗾けられたそうです。無一文になって帰ってきたことなど全く気にする素振りはなく、男は常に大きな仕事をすべきと励まされたそうです。この親にしてこの子ありです。

以前、ドイツのメーカー13社が北海道を訪ねた時に、スター農機を案内した後、ホテルで北海道の畑作・酪農の機械について2時間ほどスライドで紹介しました。日本の農業機械がこれ程発達しているとは考えていなかった様で、今後は色々な形で協力し合うことになりました。翌年にはハノーバー展があるので是非来て欲しいと言われましたので、祥孝社長を団長に23人の視察ツアーを組み、メーカー3社と、紹介された農家を訪問し、両国メーカーでの会合も持ちました。会話や演説の勘所を掴えている祥孝社長が、綺麗に整ったドイツの街並みに対して、ドイツは素晴らしい、一幅の絵を見るようなもので感動したと賛辞を送ると、ドイツもすかさず日本の農村は綺麗であったと返禮し、和気藹藹の雰囲気となりました。

そもそもドイツ人と日本人は気質が似ていることもあり、歯に衣記せぬ意見が飛び交い有意義な会合となりました。

クリスチャンは仏教徒と違ってボランティア精神が旺盛です。ドイツ側からは、技術を開発し地域の農業発展に貢献するのが私たちの役割であり、利益は地域の文化に還元するのだ、というような堂々とした主張も吐露されます。多くの日本人は、沈黙は金とばかりに、あまり喋らない傾向があります。

これは、見方によっては誠意のない印象を与え、卑怯と取られる場合も多々あります。思想に乏しいから喋れないのかもしれませんが、思想家精神に富む祥孝社長は、ドイツ人との接触は我が意を得たりとばかりに活発に発言していました。

祥孝社長は次から次へと新しい事業を打ち出し、新製品を世に送り出してきました。そのうえ、土の館を建設することで地域文化の発展にも貢献しました。そして、「企業は必ず潰れます。百年残れるの3%位でしょう」とよく言っていました。時代は常に変化し、環境が変わります。それに対応する新製品の開発が望まれます。

創業者精神を忘れ、新製品を出さないでは、企業は生き残れる訳はない、世の中は厳しく、僅かでも手を抜けば奈落の底と言いたかったのでしょう。

祥孝社長は実に几帳面で有り事業に懸命でした。我々はこの精神を見習わなければなりません。

本来国が主導すべき不練耕法や乾田直播栽培を一企業が提唱しているのは驚くべきことです。

行政も農業団体も堕落してしまったのでしょうか、戦後のヨーロッパに追い付け、追い越せの覇気が感じられません。組織に胡座をかくだけで本来の仕事をしようとしていないように感じられます。

斯くなる上は、「天は自ら助くる者を助く」です。

農業関係者が一丸となり時代の流れに即応した技術開発に取り組むべきでしょう。

幸いにして全国土を考え会は、土づくりの本質について理解されているベテランに、若々しい世代の農業者が続々加わることで、さらに活気を呈しつつあります。

地域農業を振興するための法人化や、国際化農業に対応できるシステム構築を目指すという機運も出てきています。我々はもっと日本農業発展のため尽力すべきであると考えます。

スガノ農機のためでは無く、日本農業に貢献すべきなのです。

 

30-1 トラクタ営農50周年記念シンポジウム

昭和26年(1951)外貨の割当てがあってようやくホイルトラクタが輸入できるようになりました。昭和30年(1955)頃からトラクタが増え始め、昭和40年(1965)代に入るとトラクタ営農時代を迎えます。平成13年(2001)は、トラクタの輸入が始まってから50年目。農業機械学会北海道支部と共催でトラクタ営農50周年記念シンポジウムを「土の館」で開催しました。寄贈された蒸気エンジントラクタを先頭に「土の館」に保管されているホイールトラクタを15台を整備して場内をパレードし、その模様はNHKで全国放映されました。

※前列左は蒸気エンジントラクタを寄贈された由仁町の酪農家三上さん夫妻。

 

30-2 蒸気エンジントラクタの運転

富良野駅には機関区があり、今でも昔の機関士仲間が集う蒸気機関車同好会があります。蒸気トラクタの整備や、運転指導にもご尽力いただきました。

 

30-3 土の館

平成4(1992)年に開館した土の館。数多くの方々にご来館頂いています。

日本には農業技術博物館がありませんでした。祥孝社長はヨーロッパの博物館に匹敵するものがあって良いと奔走し、「土の館」を建設しました。初代館長の穐吉さんの努力もあって見事な技術博物館が形を整えました。博物館で農業技術の発達過程を知ると、そこから未来はどうあるべきかの示唆を得ます。博物館は過去から現在、そして未来を指向する大切な学問の場なのです。「土の館」には農業技術はもちろんのこと、土壌肥料の資料も整理され、研修室も完備されています。

 

30-4 北海道功労賞受賞・平成19年(2007)

「土の館」は北海道遺産に指定され、続いて祥孝社長が北海道功労賞を授賞しました。高橋北海道知事との会話も弾んでいました。

 

30-5 ヨーロッパ視察・平成7年(1995)

平成6年(1994)にドイツからメーカー13社が北海道にやってきて交流した時、ハノーバ展に誘われ、イタリア(ボローニャ展)、フランス(パリショウ)、ドイツ(ハノーバ展)の視察を企画しました。その時の団長が祥孝社長でした。写真はドイツメーカーとの交流会の模様です。

 

30-6 クローネ社訪問

クローネ社は飼料作業機では世界有数のメーカ。社長自ら工場内を案内してくれました。玄関には創業時のボムプラウが陳列されてありました。何処の国も農業機械メーカはプラウ、ハローなど耕起・整地用具の製造から発展しています。

 

30-7 クローネ社初代が製作したプラウ

日本の場合も創業者はプラウ製作から始まっています。初代は「ばあさん」がしっかりしていたそうで、その意志をついでいると話してくれました。

 

30-8 イタリア・ボローニャ展

入口に近い場所には昔からのプラウや馬具などが陳列してありました。プラウ屋であることや、土の館のことを考えたらしく、なかなか動こうとしませんでした。

石斧・掘棒から始まって、やがて鍬・鋤に発達、次いで家畜をけん引動力源とする犂の時代を迎えます。当初、犂は鏨(チゼル)状のもので掘り起こすだけのものでした。1900年代に入るとはつ土板を設け、反転・鋤込み耕となります。

 

30-9 木製ボトムプラウ

チゼル状の撹土耕から撥土板を開発し、反転・鋤込み耕に進歩します。馬匹も改良され、深耕も容易になってきたと言えます。プラウは年代ごとに発達するのです。

 

30-10 鉄製ボトムプラウ

撥土板は木製から鉄製に発達。撥土板はアメリカで鋸板を使った硬鋼・熱処理したものに改良されました。長らくスチールプラウ時代が続きますが、第2次大戦後、日本ではプラスチック撥土板が開発されました。

 

30-11 装輪プラウ

これと同種のプラウは北部イタリアの農家から譲り受け、土の館に展示しています。これを拡大した耕馬4頭曳きプラウも展示されていました。プラウの改良開発は深耕への歴史です。これと同種のものが明治時代にケプロンなどによって北海道に紹介されています。

 

30-12 土層改良プラウ

祥孝社長は、土層・土壌改良プラウの開発にも取り組みました。同種のものを見て、感慨深げです。

 

30-13 土層改良プラウはリバーシブル

蒸気エンジントラクタにウインチを取り付けてけん引したもの。100年以上も前にこのようなプラウが使われていたのは驚きです。

 

30-14 大正時代の国産プラウ

創業者菅野豊治は大正6年(1917)に上富良野で機械鍛冶として独立。第1次世界大戦景気で、北海道の農家は力を付け、本格的な洋式農業の展開が始まりました。豊治の製作するプラウは性能に優れ、プラウ品評会では常に上位入選を果たしました。

 

30-15 スガノの白いプラウ(16×4)・昭和48年(1973)

昭和30年(1955)頃までは、畜力時代です。双耕プラウや装輪プラウが製作されました。トラクタが普及するのに伴いトラクタ用作業機を製作できない機械鍛冶は淘汰されました。二代目社長菅野良孝は、積極的にトラクタ用作業機の改良・開発に取り組み、昭和40年(1965)後期から100馬力級トラクタの時代を迎えると、本格的な大型プラウの開発に着手します。

 

30-16 白いビートハーベスタ

三代目祥孝社長は、プラウ専門メーカになって技術水準を高め、世界一と競えるプラウメーカになることを目指し、昭和50年(1975)頃、優れた性能を示していたビートハーベスタを他社に譲渡。昭和53年(1978)に土を考える会を結成、同志を募ると共に、土を徹底的に知ることを会社の生業としました。

 

30-17 リバーシブルプラウ(18×3)・昭和58年(1983)

昭和50年(1975)に入ると80馬力級のトラクタが多くなり、四輪駆動時代を迎えます。スガノはこの期を逃さず、予てから懸案のリバーシブルプラウの開発に着手しました。土を考える会のメンバーが率先してこれを導入し、普及拡大に尽力されました。